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小川征二郎

小川征二郎

フードジャーナリスト。現在パリに在住し、サロン・ド・ショコラ等のイベントや、パリの最新パティスリーを取材している。


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小川征二郎のパリ通信


Vol.108 創業200年の老舗 フーシェ・パリ

 千年の都京都では創業百年の店などひよこ扱いなのだそうだ。テレビを見ていたら百年続くと言う老舗のご主人が、やや自虐的にこんな話をしておられる。
 そう言えば日本からパリを訪れる方に、パリの老舗店の話をすると「京都はもっと古い店が沢山ありますよ」と言われる方が結構おられる。私の言い方が悪いのか、別にその店の自慢をしている訳でも無いのに「古い」「老舗」という言葉に敏感に反応される。
 物の評価や表現は実に難しい。新しもの好きな日本の方がこれほど古いと言う事に拘るのもある意味不思議である。日本人にとって京都と言う都は、やはりある種の聖域なのだろう。

 

 ショコラの老舗フーシェ・パリが創業200年を迎えたと言う。と言う事でオペラ通りのフーシェを訪れて見た。出かけた日は責任者が不在と言う事で翌週再訪。この日は店の責任者であるアンヌ・ソフィーさんが店に出て居られた。店の取材許可をお願いすると「良いですよ」の快諾。アンヌさんはまるでモデルの様な長身美人の方である。
 フーシェはフランスを代表するショコラトリ―。ショコラ好きの方なら誰でも知っているオペラ通りにある老舗店である。この店については、恐らく数多くの日本メディアが紹介された事と思われる。それほど長い歴史を持つ店だ。
 アンヌ・ソフィーさんにお会いして、最初に聞かれたのは「フーシェを知っていますか」と言う言葉だった。いきなり発せられたストレートな言葉、その対応に先ず驚かされる。ちょっと引いたがここは肝心。
 「勿論知っています、今年が創業200年を迎えた事も。ショーケースに飾ったデコラシオンに書いてありますよ」と答えると、スタッフと一緒に大笑い。ユーモアの解る実に感じの良い方である。
「では先ずこのショコラを食べてみて下さい」と勧められたショコラの一粒を摘まんで食べてみる。薦められた理由に納得。中に詰まったアーモンドの量が今迄頂いたどの店のショコラより多い。味も申し分ない。と、出だしはこんな具合で始まった。
 店舗のインテリアもディスプレーも老舗に相応しい。パリらしい雰囲気、溢れる風格と落ち着きがある。店の正面左側にレジがあり、そこでスタッフの方が客に対応している。私が訪れた時も客が次々と来店した。中には日本の方も居られる。どうやら娘さんがパリに住んでいる様で、お母さんに店の説明をしている様子である。会話の中に「有名な老舗」という言葉が盛んに出てくる。
 そん中で出来るだけお客が映り込まない様注意しながら撮影を続けた。店の中央棚、左右の壁に設えたケースや棚にお洒落なパッケージの商品が品良く並べてある。中央奥にアイスクリーム・ボックスが置いてある。ショコラがメインのフーシェで、陰に隠れた様な存在だが、夏場は行列が出来るほどの銘品だそうだ。

 

 1819年、パリ左岸のバック通りにフーシェは誕生した。当時この通りは左岸の人気通りとして多くの市民に愛された。お洒落なブティックや花屋が多い通り、特に当時のパリジェンヌに人気の通りであったらしい。この通りの延長線にパリのデパート第一号のボン・マルシェがあり、その人気に便乗すような形でバック通りに隣接する各商店も潤ったそうだ。
 フーシェの創業者はルイ・オーバン・フーシェである。この新しいショコラトリーもボン・マルシェの恩恵をこうむる様に発展している。商いに地の利が大切な事の例のひとつであろう。
 1897年、息子のルイ・フーシェが社長に就任。会社の発展に拍車がかかる。就任から凡そ17年で右岸に4店舗がオープンする。当時のパリでは異例の発展であったらしい。
 1905年、ルイ・フーシェの妻キャロリーヌが、店の商品パッケージングをアール・デコのアーティスト、ウージェーヌ・ベルヴィルに任せる。この成功でアール・デコの画家バルビエ、アルヌーにパッケージ・デザインを依頼、さらに人気を呼ぶ。
 キャロリーヌの提案は当時としては画期的なものであった。当時人気のイラストレーターを起用したシリーズは、その後もフーシェ・ファンを増やし続けたと言われている。
 1920年、ルイ・フーシェの甥のマルセル・グランジェが経営に参画して新しい大型工場を郊外に建設する。
 1968年、ルイ・フーシェとマルセル・グランジェが亡くなり、アラン・グランジェが社長になる。この頃からフランスの高級チョコレート、マーケットは不景気期を迎え、国際マーケット、主にレバノン、アメリカ、日本に力を入れる。
 1973年には、日本の松坂屋とライセンス契約をしたとある。思えばこの頃は日本の景気上昇期、海外とのライセンス契約が盛んに行われた時期であった。

 

 アンヌ・ソフィーさんに頂いたフーシェのパンフレットを見ながら時系列に纏めてみた。記した事の他にも色々な事が書いてあるが、割愛した部分も数多くある。
 2002年、オペラ通りの店がアール・デコスタイルでリニューアル。
 2004年にフーシェの19世紀後半20世紀前半のパッケージングを再利用とある。この事はフーシェの経営に新たな一歩を加えたとも言われている。

 

 2011年、ジャン・ルイの息子ルイ・アレクサンドル・フーシェが社長に就任。
 2013-2018年、この間パッケージングに現代アーティストとコラボレーションを始め、パッケージ向上に更に力を注ぐ。フーシェと言えばオペラ座を使用したシンボルマーク(ロゴマーク)でも広く知られている。
 フーシェ経営戦略にパッケージ分野の貢献は欠かせない要素である。実際この店のパッケージをコレクションしている人も多いそうだ。そう言えば以前ヴァンヴのノミの市でここのパッケージが売られていたのを見た事があった。

 

 2019年、フーシェは創業200年を迎えた。店頭に沢山のマカロンを使った大きなケーキを飾って道行く人を楽しませている。フランスのショコラ発展にフーシェが果たした役割は大きい。

 

 よく言われる事だが香水とショコラは、フランス輸出商品に欠かせないと言われる。単価が高く、容量が少ない。こんなうま味のある商品はそう簡単に出来るものではない。先人が残してくれた国の財産である。
 以前、ボン・マルシェ近くの「パリエス」を訪れ、店の責任者と立ち話をした折、フランスのショコラ発展のルーツはバスク地方にあると言われた事がある。パリエスの本店はフランス南西部のバイヨンヌ、バスク地方である。パリエスの起業は1895年、こちらも老舗である。  
 パリにもラ・メール・ド・ファミーユやドゥボーブ・エ・ガレなどの老舗と言われるショコラ店が今も市民に愛されている。こういった古い店が歴史と共存しながら続いてきたのは、実に喜ばしい事といえるだろう。

 

 8月半ば過ぎ、パリは珍しく雨日が続いた。と同時に気温も急降下、パリを訪れていた沢山の観光客は行き場を失ったように暖を求めてカフェに集中した。中でも老舗アンジェリーナに大勢の客が集まり長い行列が出来た。
 来店した客の大半が注文したのがショコラ・ショーだそうだ。特にヨーロッパ各国からの客がこの飲物を注文するらしい。例年なら夏場は紅茶を注文する客が多いとの事。テレビの取材に対応した店のマネージャーが「異常天候さまさま、このまま雨が続いて欲しい」と笑顔でカメラに向かっている。期待に反して次の週は猛暑、相変わらず気まぐれ天気のパリに戻ってしまった。
 寒い日のショコラショーはパリの風物詩、この街に良く合う飲物である。間もなく寒い日の訪れ、街路樹の葉が色付き始めた所もある。ショコラの季節の始まるパリでもある。


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