小川征二郎のパリ通信


Vol.105 L’INSTANT CACAO ランスタン・カカオ

 エクレア、ブリオッシュ、シュークリームなど、単品商売で話題となったスイーツ関連ブティックが次々と閉店している。売れ筋商品に拘り、単品商いで注目を集め、ビジネスの新しいモデルとメディアも騒いだが、如何やら結果は思わしくなかったようだ。

 原因は色々あるだろうが、そのひとつにブティックの家賃高騰が言われている。売り上げと家賃のバランスが崩れたと言う借主の声が多く聞かれる。物が売れなくなっている事も事実、業種に関係なく店終いをする所が増えている。

 パリで店を開くには先ず店の権利(バイユ)を買う必要がある。この方法は前の店主から直接買う事になる。日本で言う権利金と同じ様なものだと思うが、日本との違いは、この権利は店を閉める時、次の店主に売る事が出来る。家賃に付いては別で、これは大家との交渉になる。通常は不動産事務所が大家との間に入り代行してくれる。

 パリの物件が高騰している事は先にも書いたが、特に商業地と言われる1、2、3、6、7、8区などは上昇し続けているそうだ。店舗家賃も高騰するが、同時に条件の良い店舗の権利も上昇する。買った時の値段が何倍にもなって売れると言う事もある。と言う事で投資目的で安い物件を探して、バイユを買う金持ちがいるそうだ。

 このような状況下で商いの形態も変わり続けている。パリの街には市民に密着した様々な店があった。私が住んだアパート近くにも家庭電器、日用雑貨、ボンボン屋、八百屋、魚屋、布屋、ボタン店などなど、色んな店が徒歩5分で行けた。ある意味市民の味方的な店である。売り手と買い手の繋がりも強く、そこには家族的な雰囲気も存在した。

 現在これらの店の殆どが閉店してしまった。閉店した後には華やかなファッション・ブティックやレストランが次々とオープンしている。古いパリを知る人はこういう流れを残念だと言う。1商品、1-2ユーロの利益ビジネスが、同じ土俵で100-200ユーロの利益があるビジネスに勝てる訳もない。上記した店が新たに出来る事は殆どない。殆どの業務は大型のスーパー・マーケットに吸収されてしまった。暮らしづらくなったと言う老人の嘆きが聞こえてくるようだ。

 

 そんな中で、パティスリーやブランジェリーは健闘している業務のひとつに挙げられる。とは言え、次々と新しい店が出来ている訳では無い。

 若いパティシエが独立して、自分の店を持ちたいという人は多いが、中々独立できないのはこういう背景があるのもひとつと言われる。残念な事だ。

 単品商品で店を開き、閉めた所がその後どの様になったか店を見てみた。マザリヌ通りにあったブリオシュ専門店は店を閉めて1年近くになるが、閉店当時の状態が続いている。セーヌ通の専門店も閉店して半年が経つが、新しい買い手は付かないようだ。同じようにアンシエンヌ・コメディー通りのエクリア専門店も今年に入り店じまいをした。

 

 オデオン界隈を調べただけでもこの様な状態である。パリ中を歩けば更にこうした店が増えるだろう。もっとも、このような単品ビジネスの店は人が集まる繁華街に出店したので、何処にでもある訳では無い。それゆえに今人気のビジネスとして注目を受けていた事でもある。

 この界隈で唯一生き残っているのがメトロ・マビヨンに近いla tarte tropezienne。随分前だがこの稿で紹介した店、本店が南フランス、避暑地で有名なサントロペにある。ブリジット・バルドーがこのタルトの名前を付けた事で知られるようになった。

 

 今年3月、一軒の新しいショコラティエがオープンした。店の名前をL’INSTANT CACAOと言う。場所はパリ1区、ファッション・ブティックが多く集まるプラス・デ・ヴィクトワールに近く、有名なパッサージュ・ビビエンヌはすぐ目の前にある。

 店のオーナーはマーク・シャンショールさん、若いショコラティエである。21㎡と本当に小さな店だ。ガラスの扉を押して中に入ると左側に大きな麻の袋がふたつ無造作に置いてある。袋にはショコラ・ド・グァテマラの文字、カカオ豆が入っているとの事。右側にはショーケースがあり中にマークさんの作品が飾ってある。その奥にレジのあるテーブル、可愛いカップの中に試食用のショコラが入っている。

 ガラスで仕切った店の奥に厨房がある。小さな店には不相応と思えるような大きな設備が並んでいた。店全体の凡そ4分の3ほどのスペースだろうか。

 初めて店を訪ねた時、厨房でひとりの女性が忙しそうに働いていた。話を聞いたらマークさんのお母さんとの事、感じの良いマダムだった。店の手伝いをしていると言う。残念ながらこの日、マークさんは外出中で会う機会はなかった。

 レジの前に設えた棚に、現在メインの商品であるオリジナル・タブレットが並べてある。その数凡そ10種、マダムに薦められるままにグァテマラ豆を使った品を試食してみた。甘味を抑えてあるため、若干の酸味、苦みを感じる。ひょっとするとこの味こそショコラ本来の味ではと思ってしまった。仄かに果物の香りと風味が口中に残る。

 他の商品も薦められたがまたの機会にすることに。私はショコラを連続して試食すると本来の味が解らなくなる事が多い。

 

 日を改めて店を訪ねる。お会いしたマークさんが若いのに先ず驚き、明るく感じの良い青年と言う印象を受ける。挨拶の後、レジのテーブルを挟んで立ち話。先ず簡単で良いからとマークさんの経歴を伺う。

 マークさんは南仏モンプリエの出身で現在26歳との事。パリに出て、フランスを代表するショコラの老舗店パトリス・シャポンやメゾン・ドュ・ショコラで修行を重ねる。今年独立して念願の店をオープンした。自他ともに認めるショコラ好きだそうで、納得の行くまでショコラを追求したいそうだ。

 カカオ豆の選定から始まるショコラ作りだが、マークさんは自らカカオ豆を探す事から始めたと言う。出来るだけBIOのカカオを使いたい為、必要ならカカオ産地に出かける事も厭わない。

 産地はアフリカ、南米、中米、アジア、良いカカオ生産者が居ると聞くと何処にでも出かける。先日もコロンビア迄出かけて生産業者と会い買い付けをしたそうだ。

 レジの後ろ壁に張った世界地図を見ながら、丁寧に産地説明をしてくれる。買い付けたカカオは税関を通り、店に届いてから乾燥を始める。税関通過に結構時間が掛かるそうだ。ひとりで全ての仕事をこなして完成させるのが、マークさんの仕事に対するポリシー。

 と言う事で今回コロンビアで買い付けたカカオが、ショコラとして店頭に並ぶのは速くても8か月位後になるそうだ。ここまで話を聞くと、コロンビア・カカオを使ったショコラの完成が待ち遠しくなる。ぜひ食べてみたいものだ。

 ショコラ完成までには、以下の工程が必要。先ず生のカカオ豆を焙煎、低温でじっくりと焼く。この作業でカカオ独自の香りを醸す様になる。マークさんはショコラの香りにとことんこだわりたいと言う。またその事が大切とも。その後脱皮、粉砕、焼き戻し、と総ての工程をひとりでこなす。その為の設備は整えたそうだ。

 今年1月、マークさんはprix du goût d’entreprendre賞をパリ市から受賞した。食の分野で独立を望む企業家の為に、数多くのアルティザンの中から選んで与えられる価値ある賞である。

 フランス人のショコラは好きはつとに有名だ。町を歩きながらタブレットを頬張る男性の姿を見かける事も多い。一説にはストレス解消になると言う話も聞く。正直言うと私は普段にショコラを買う事は余りない。特にタブレットは店に入っても見るに止めていた様な気がする。

 ランスタン・カカオのタブレットはグアテマラで7,50ユーロ、ショコラ・オ・レ(ミルク入り)で8,50ユーロ、ショコラ・ノワール100%は9ユーロ。スーパーなどで売られるタブレットに比べると可成りの割高に感じるが、それでも買う人は多い。

 私が店に居る間にも3人の客が訪れた。中の一人は近所に務めるイザベルさんと言う女性、週に3回位通うと言う。纏め買いをしないで一回で2枚買うそうだ。昼休みに気分転換を兼ねての買い物。週3回2枚づつの買い物なら毎日1枚は食べている事になるのでは。ほっそりとした美しい女性だった。

 正直言うと、タブレットだけの店に足を運ぶ客はそんなに多くないのでは、と思ったが如何やら危惧であったようだ。パリのショコラ好きは奥が深い。

 今はタブレットがメインの商いだが、将来的にはショコラ・ケーキなどお菓子の種類も増やすと言う。どんなショコラ菓子が出来るか楽しみである。

 新しい店が中々登場しないパリのスイーツ界。そんな中で、小さいながらも敢えて挑戦する若い経営者が居る事に、ある種の安堵と喜びを感じるのは私だけでは無いだろう。その勇気にエールを送りたい。


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